愛するということ


PhaseOneを用いた新作のテスト

新婚旅行から戻って、ようやくスクエアチェキでのプリントも終了し(540枚!)、妻はnohanaで製本するための写真整理に没頭しています。それも終盤に差し掛かり、旅も記録として記憶に整理されてきています。妻はnohanaが完成してしまうことを望みながらも、「寂しい」とつぶやいています。

お互いに旅の記憶を抱きつつ、それぞれの現実に戻りながら、体験が経験へと徐々に心の中でほぐされてきています。この旅から、私たちは経験し、学ばなければならないことがあるように思います。

お互いのストレスフルな社会生活の中で、この旅の前後で変わったものとはなんでしょう? 単にアルバムにしたり冊子にしたりして満足してしまっては、あまりに惜しい気がします。旅とは、そういうものではないと思います。

2週間、14日間、300時間以上をほぼ一緒に共有し、体験したということ。これだけでも、通常の生活では成し得ないことをできたのだと感じます。大切なのは、こうした時間の過ごしかたをお互いに初めて体験し、互いにグッと近づいて相手を、そして自分を見つめることができたということ。これを省みないと、きちんと自分の中で消化できないと、旅はアルバムの中の写真として記録されるだけに終わってしまいます。そうではないはずです。

もう数十年も昔に流行った言葉に、「成田離婚」というのがあり、社会現象になりました。新婚旅行で互いを知り、それに耐えきれずに帰国早々別れてしまう、という関係です。私が米国に留学していた頃、この言葉が社会現象として使われるようになり、私は大学の活動の一環で、地元の高校生と文化交流をした際のスピーチで、今の日本ではこんな現象が起こっている、として「成田離婚」について話したことを覚えています。

言葉は廃れたかもしれませんが、現象は今も残っているように思います。私の周りの友人にも、結婚して数年を待てずに離婚してしまう人が何人かいます。こうした人々は、結婚で何を学んだのでしょう? 生活を、時間を他人と共有するということが、重荷になってしまったのでしょうか? パートナーが結婚したら豹変して相手にしてくれなくなった、という話も聞きます。何が原因なのでしょう?

幸い私たちは、成田に戻っても互いを見切ることなく、通常の生活へと戻れました。妻がどう感じているか、正直にいうとわからないことも多いのですが、私の中では、この旅を終えて、より妻を大切に想い、感謝できるようになりました。妻はどんどん、私にとってかけがえのない存在へと変化してきています。それが、結婚生活であり、愛を育む、ということなのではないでしょうか。

洋の東西を問わず、人はすぐ、付き合っている相手に「愛している」という言葉を使いますが、私はそれに軽い違和感のようなものを感じます。言葉にすることは大切ですし、その時の正直な気持ちなのだと信じていますが、もともと愛とは、ポンと生まれるものではなく、時間をかけて、相手の理解を深めながら、大切に育んでいくものだと思っています。

愛について分析していたエーリッヒ・フロムの名著、「愛するということ」の中で、フロムは「愛は努力だ」と断言しています。私はこれに賛成です。愛は自然発生的に心に芽生えるように見えますが、それは実は「恋」と同義で、「愛」は母親から子への愛以外において、特に結婚といった他人同士の関係の中では、努力なしに成立するものではないと考えています。理屈で努力するのではなく、心で努力するものです。

相手と自分との違いを認識し、それを受け入れ、たとえ理解できなくても尊重する、ということの繰り返しの中で、愛というものは育っていくのだと思います。それができない人が、あまりに多いように思います。「成田離婚」などというチープな言葉が流行ったのも、そんな背景があるように思います。

大切なのは、相手のいいところばかりでなく、欠点や問題も含めて、丸ごと受け入れる心を、自分の中に持つことではないでしょうか。罪をなきものとして許すのではなく、罪も丸ごと受け入れて「赦す」ということは、キリスト教義の中でももっとも重要な部分ですが、私がキリスト教に入ったのも、この教え一点にあったと言えるかもしれません。これが、人間関係の基本なのだ、と若いながらにも感じて、洗礼を受ける決意をしたのだと思います。

とは言っても、人間はそれほど寛大ではいられない時もありますし、その方が自然なのかもしれません。ですが、結婚した以上は、相手を「赦す」という心の姿勢がとても大切だと信じています。人が人を赦して愛し合えれば、世界はずっと平和で豊かなものになるでしょう。

話が大きくなってきたので、この辺にしておきますが、私にとって今一番の課題は、妻を丸ごと赦す心を持つことです。それができるようになれば、その時初めて、偽りのない心から「愛している」と言うことができるでしょう。

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